日本を率いる国際的なリーダーを育て世界に発信できる英語力を養う

例会報告

紘道館11月例会報

(日時)平成26年11月2日 (場所)上野ハイツ

今月の紘道館例会は、特別ゲストをお招きしました。
ユダヤ人と日本人の関連性に関する多数の著書、そしてテレビ番組にも出演してこられた久保有政先生です。

そのため、いつもは1時間みっちり行う通訳稽古を30分で切り上げ、松本師匠と久保先生との対談を1時間にわたり聞かせていただきました。

「いや、私は通訳の勉強がしたのだ。」というような雰囲気は紘道館にはありません。
英語を学ぶ上で我々がぶつかる国際社会問題の一つにユダヤ人に関することがあることもあり、またユダヤ人と日本人との関連性というものは、学校ではまず学べないことをみんな分かっているからです。

筆者も実は某バラエティ番組で先生を拝見したことがあるのですが、ユダヤ人の氏族の一部が流れ流れて日本にやってきた、という内容をちょっと眉唾的、あるいは興味をそそる効果音付きで見せられるより、畳の上に座って目の前でお話を聞いたほうが、はるかに説得力がありました。

次にディベートに入りました。
本来佛教に関してやるはずでしたが、スペシャルゲスト久保先生に一神教であるユダヤ教のお話を聞き、「日本にとって一神教は有害かいなか」というテーマでやろうか、という流れになりかけました。

その流れをみていた久保先生曰く「一神教が偏狭であり、多神教が寛容性であるというのはいかがなものか。
ユダヤ教は一神教であるが、異教徒も平等に扱わねばならぬという寛容性を説いたのがユダヤのリーダー、モーセだ。」思わずどきりとしました。

一神教のことをなんとなく「融通がきかない」=偏狭=日本に有害、と勝手に思っていた筆者の胸の内を見透かされたかのようでした。
そこで一神教というなじみの薄い宗教より、先祖崇拝という誰にでも身近なことにシフトし、「先祖崇拝を死守すべきかいなか」で二チームに分かれてディスカッションを始めました。

ディベートのテーマはこのように大枠内でその場の空気で変わっていきます。
肯定派は先祖なければ自分なし。先祖に感謝することで道徳観が高まり、家族の絆も深まる。

それによって高齢化に伴う介護問題も解決できるよう、家庭で、学校で、世の中で先祖崇拝を推進しようというもの。
それにたいして否定派は法事など、先祖供養のために我慢しなければならないし、経済的負担も大きい。

そしてキリストを信じるクリスチャンの方は、お坊さんを呼んで先祖崇拝を強要されるのは精神的苦痛を感じる。
宗教的多様性を認めよと訴えました。

よい勝負をしたのですが結局は肯定派が僅差で勝利し、両者握手をして終了しました。

ちなみに筆者が最も学んだことは、否定派の立論者が肯定派の反駁者から質問攻めにあっているとき、よくわからぬことを「知りません」と答えたことです。松本師匠曰く、知らないことを知ったかぶりしないでしらないという。
これはintellectual honestyといい、ディベートの基本中の基本とのことです。

最後の白熱教室では、師匠が質問してきました。
「娘の結婚式の日に、世話になった上司の妻の葬式が重なった。あなたならどちらに出席するか?」全員数秒間沈黙しました。
いつもならガンガン意見を述べる方がおられるのですが、沈黙が続くのもしらけるので、筆者が口火を切りました。

「いやあ、もちろん結婚式です。新婦の両親としての、またホストとしての責任がありますから。葬式はゲストですよね。上司に対する義理人情はあっても責任はありませんよね。」これを皮切りに各自が意見を述べだしました。

師匠の意見は「自分は侍であるから、家族のことより義理人情を大切にする。」との意見ですが、筆者は「自分は百姓の子であるから職場における義理人情よりも親戚づきあい、町内づきあいで求められる責任を大切にする。」ということで物別れに終わりました。

ただ、「白熱教室」においては皆さんが主役です。間違っていてもかまわないので、「白熱」させてください。「白熱議論」のなかで何かが分かってくるものです。

ちなみに筆者がこの反論を通じて気づいたことは、「義理人情」はどちらを選ぶかという選択肢を与えられているけれど、「責任 accountability」というには選択肢が与えられず、それをやる以外に道はない、ということです。

実は義理人情というのは思っているほど不自由なものではなく、自ら義理というものを選べる意味では自由なのではないか。
そんなことに気づかせてくれたのが白熱教室でした。

正午に始まった例会も夕方六時半までまさに「白熱」の連続でした。
さらにこの後夜九時半までアルコールやおつまみで「直会」を行い、白熱状態が覚めやみませんでした。